死ぬこと 生きること 看護助手という仕事をとおして
数年前、ぼくは看護助手として働いていた。
そのときのつづった日記を読み返してみようと思う。
ターミナル病棟に勤務していた。
いはゆる終末医療の現場だ。
そこは人が死ぬということが日常的な職場だった。
最初は戸惑いや悲しみが襲ってくる。
仲がよくなった患者さん、よくおしゃべりをした患者さんが次の日に出勤していたら亡くなっていた。
そういうことがよくあった。
でもだんだん慣れてくる。
何も感じなくなってくる。
08月29日
今日、モルヒネ10mm入りの注射器を看護師さんから手渡された。
1階の薬品室に返却してきて、と書類も一緒に手渡された。
僕は無言で受け取り薬品室の薬剤師に書類とモルヒネを手渡した。
理由はきかなくてもわかった。
患者さんが亡くなったのだ。
だからもうモルヒネは必要なくなったのだ。
ただそれだけのことなんだ。
金曜の夕方からその患者さんの病室の前に家族が集まっていた。
みんな不安そうな顔と、悲しみをこらえたなんともいえぬ表情をしていた。。
そして月曜の今日来てみたらやはり亡くなっていた。
この職場では珍しいことではない。
すごく仲が良い患者さんではないが知ってた患者さんだった。
僕はこの患者さんを何度か車椅子にのせて検査室ににはこんだ。
その時いくつか世間話をした。
ただそれだけの関係だ。
ずっと下をむいてうつむいてる人だった。
大腸がんに侵され黒ずんだ肌にやせ細った体。
腕や腹、鼻、体の至る所にチューブが入ってる人だった。
車椅子でその人を運びながら沈黙が辛くて話しかけたんだ。
今日はいい天気ですね。とか明日から雨が降るみたいですよとかさ。
自分でもなんてしょうも無いことしか聞けないのだろうと思うよ。
だってずっと入院してんだからその人にとって天気なんて関係ないだろうし
でもなんて話しかければいい?
お体調子どうですかなんて絶対きけないよ。
医者じゃないおれにだってその人がもう長くないことはわかる。
その人はずっとうつむいてた。。
浅黒くやせこけた顔がいまでも記憶に残っている。
その人は入院して約2週間で死んだ。
死ぬ数日間その人は何を思っていたのだろうか。
怖かったのだろうか。
それとも解放された気持ちだったのだろうか。
最後は家族と医師と看護師に見守られてその人は死んだ。
死んだ人はどこに行くのだろう。
魂というものがあって肉体が滅びるとその魂というエネルギーはどこか行くべき所があってそこに行くのだろうか。
体の薄皮を採取してそれを顕微鏡で見ると無数の細胞が見える。
細胞を一つとり、それを電子顕微鏡でみるとその細胞に50兆個の原子が見える。
その原子をさらに細かく見ることができたら最終的に流れるいくつもの波動が見えると言われている。
それが経絡でいう気なのではないかという説がある。
その波動が体の体表を、体の中を無数に走っている。
経絡の流れにそってそれが循環している。
その流れは最終的に体を巡りめぐって体の中にある魂に流れ着いてるのではないだろうか。
なぜかそう思えた。
鍼灸専門学生のころ授業のカリキュラムで解剖見学というものがある。
本物のご遺体を医師の先生が解説しながら臓器や筋骨に実際に触れたり確かめたりする授業だ。
真夏の蒸し暑い中、引率の先生や、当時のクラスメイト一同と共に、とある大学病院にいったことがある。
そのとき僕は解剖された人体をみてこう考えた。
この人も生きてたころは笑ったり泣いてたりしてたんだ。
語り合える仲の良い友はいたのだろうか。愛すべき家族はいたのだろうか。
自らの理想と信念のもと、この人は自分の人生を精一杯生き抜いてきたんだ。
生きていたころは。。
こうして亡くなる前は。。
でも目の前のステンレスでできた冷たい解剖台に乗せられてる肉体にはそんな面影は微塵も残ってはいなかった。
人体という神経と肉と骨が集まったものが呼吸して、動いて、感情がある。
笑ったり泣いたり怒ったり仲直りしたりして人生を歩んでいく。
奇跡だとおもった。
人間はなぜ生きているのだろう。
そしてなぜ死ぬのだろう。
死んだ人間はどこにいくのだろう。
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